読書欲
僕は中学校・高校と、結構読書をしていた。
というのも、寮生活で強制的に19:50~23:00の間、勉強部屋に詰め込まれていたから、「暇」だったのだ。
もちろん勉強をするために閉じ込められるのではあるが、強制的に勉強部屋に詰め込まれたからといって素直に勉強ができるほどできた子供ではなかった。
なので、勉強部屋を見て回る舎監の"監視の目"をかいくぐって、よく読書をしていた。
読書のジャンルは中学校・高校の時はほとんど「小説」だった。
日本の作家「東野圭吾」から海外の作家「J.K.ローリング」と特にこだわりはなく読み漁っていた。
その中でも特に面白いと感じたのは、シドニー・シェルダンだった。
僕が中学生の15年ほど前ですら、すでにシドニー・シェルダンは「過去の作家」になっていたから、「ハードカバー」の中古本がBook off で100円くらいで買うことができた。
なので、初めて読んだ「ゲームの達人」が面白くて、シドニー・シェルダンの本を Book off に通い詰めてほぼほぼ全部買った記憶がある。
また、その他にもご存じの方もたくさんいるとは思うが、「映画の本」というのがある。
例えば、「スパイダーマン」や「アヴェンジャーズ」など、有名な映画の「本」があるのだ。
もちろん、映画だけではない。
かの有名なドラマ「24」の本もあった。
「24」は、ドラマの中での時間と、現実での時間が同時に進む新感覚ドラマという立ち位置で流行っていたのだが、「本」なのでその緊迫感はない。
それでも、「エンターテイメント」として楽しむことはできた。
寮でテレビは禁止されていたから、「本」くらいしか楽しみはなかった。
エンターテイメントとして楽しむことができたものは、
- 本
- 休日の映画館
- 休日の友達とのカラオケ
くらいだった。
ゲームも禁止されていたから、全然できなかった。
なので、結構読書していた気がする。
それが。
それが、大学生になって「全く」と言っていいほど読書をしなくなってしまった。
なぜなら「読書以外に楽しいこと」がたくさんあったからだ。
大学生になり、何でも自由になった。
ゲームもできるし、映画も自由に見れるし、部活や友達との飲みなど、たくさん楽しいことがあった。
読書は、「ゆっくりと時間を取ってするもの」というイメージだったから、全然しなくなり、いつしか読書をするための「集中力」すらなくなってしまっていた。
読書をしなくなってから、はや12年。
僕もついに30歳になってしまった。
「ちゃんとしなければ」
そういう想いが芽生えてきた。
今までちゃんとしてこなかったと言われると、ちゃんとしてこなかったかもしれない、というのが正しい表現な気がする。
何でも、テキトウに済ませてきた。
勉強も、部活も、全部。
そろそろ「大人」だ。
ふざけている場合ではない。
でも、ふざけたい。
ふざけてなんぼの人生だとも思う。
やることさえちゃんとやっていれば、ふざけていたっていいじゃないか、とも思う。
でも、だんだんふざけていてはいけない場面が増えてきた。
あ~ぁ。
つまり、「落ち着く」ということだ。
落ち着く、ということは、だ。
そう、「落ち着いて、ゆっくりと時間を取る」場面が多くなってきた、ということだ。
すなわち、「読書」をする時間が増えてきた。
そもそも読書は楽しい。
別に、読書を「しなければならない」という感覚ではない。
「落ち着かないとな」という想いが増えると、なぜか、「ゆっくりとした時間」が増え、勝手に「読書時間」が増えてきたのだ。
読書は自分にとって有益だから、という理由で気になる本は躊躇せずどんどん買っていた時があった。
しかし、ハードカバーとなると1500円とか、高いものだと2000円くらいするものもある。
そういうのも躊躇せずに買っていたら、本の代金がとんでもないことになった。
しかも、しかもだ。
読まない本も増えてきた。
気になるから買ったはずなのに読まない。俗にいう、「積読」だ。
これではもったいないと思い、本の代金をケチるようになった。
ケチり方は、新刊を発売日と同時に買って、速攻で読破し、メルカリで速攻売る、という単純な方法や、Kindle Unlimitedで読むとか、あとは中古で買うとかだ。
中古の本はめっちゃ安い。
そして、ついに、究極のケチり方法を見つけた。
そう、図書館の利用だ。
僕の人生で、市の図書館を利用したことなんて浪人時代に勉強しようとおもって机と椅子を求めていったときくらいだ。
しかし見つけてしまった。究極の読書にお金をかけない方法を。
しかも、たまたま僕の住んでいる市の図書館は全国でもかなり綺麗な方で、充実しまくっている。(ことにここに住みはじめて1年3ヶ月くらいしてやっと気が付いた)
これからは図書館で本を借りて読む、という最強の方法で読書欲を満たしていこうと思う。