父の話
僕の尊敬する人物の内の一人は、父親だ。
その理由は端的に言えば、
貧乏から努力で這い上がった人だから
だ。
この資本主義社会という、「金持ちがさらに金持ちに、そして貧乏人は貧乏のまま」という残酷な世界で、
ただひたすら勉学に励み、努力で這い上がった人だから
だ。
その父の話を、これからしていこうと思う。
※この話はフィクションです。
貧乏な幼少期
生まれは東京都下。今の人たちはこの言葉を知らない人も多いのではないか。東京都法規(条例や例規類)上では古い規程に残るのみとなってしまった、「都下」という言葉は、「東京都は23区以外、東京都ではない」という都会人の尊厳とも、威厳ともいえる崇高なプライドの垣間見える言葉だ。簡単に言えば、そのままそういう意味なのだが、とにかく23区以外の現在の東京都で生まれた。
東京以外の人はあまり知らないかもしれないが、実は東京にも、山や、川、田んぼばかりの場所がある。そこらの地域、つまり東京都下で産まれた僕の父は、おそらく日本の平均収入の半分くらいの家庭、つまり貧困層で育った。
祖父が真面目に電気系の会社で働いていたことしか分からず、あまり過去を語らないまま他界してしまった今になってはどうして貧乏だったのかはわからないが、僕の父親の家庭は貧乏だったらしい。
それに気づいたのは、父が小学生の頃だ。
父は、毎日風呂を、薪で沸かしていた。薪だ。
そこら辺にある木を拾ってきて、家の庭にある石の板の上に置き、斧で割って風呂の下の窯に入れ、火をつける。
これを小学1年生からずっとやっていたらしい。
ちなみに、他の家庭では普通に蛇口をひねればお湯が出る時代だ。しかし父の家では、お湯が出なかった。
薪を割るコツは、石の板まで斧がついてしまうと歯が欠けてしまうので、その直前でピタッと止める。ビビッて力が弱いと、途中で止まってしまうから、意外と技術が必要だった。という。
薪で火を起こさないと、風呂に入れない。これが貧乏故ということに気づくのに、時間はかからなかった。
無口な父と、活発で明るい母のもとで
祖父(僕の父の父)は、かなりの無口、電気系の仕事だったのにも関わらず、自宅で筋トレでもしていたのか筋肉隆々で、怒るとげんこつだった。(余談だが、祖父の葬式の時に来ていた祖父の兄弟のおじさん(?)から聞いた話では、祖父は小さいころから筋トレをしていたらしい。しかもただ石を何回も持ち上げるとかいう方法で、だ。壁からジャンプしながら1回転するなど運動神経も良かったらしい)
とても怖かったというエピソードの一つに、リコーダーを吹いていたらげんこつされてリコーダーを吹けなくなったというエピソードがある。父は、小学生の時リコーダーが得意だった。だから家に帰って、楽しく練習していたら、「うるせぇ!」とげんこつされたそうだ。まだ小学校1年生なのにだ。可哀そうに。それからリコーダーも練習できなくなったと。
祖父はとても地頭が良かった。
なにせ、自分で電気系の本を買ってきて、勉強して資格を取り、会社に就職したらしい。
しかも、その知識で、その当時珍しかったテレビも自作してしまった。
テレビは珍しかったから、近所の子供が集まってきていたときもあったという。
祖父は、仕事から帰ってくると、「ラーメン!」と一言いって、毎日ラーメンを食べていた。
しかも、たばこを吸っていたから60歳の時に狭心症になり、バイパス手術をした。
その時の執刀医は、東京大学心臓血管外科の名誉教授、高本先生だ。その後、89歳まで天寿を全うできたのは、この先生のおかげと言っても過言ではない。
たばこを買いに行く御遣いも父が小学1年生からしていたらしい。その当時は、小学生がたばこを買っても何も咎められることはなかった。
それから、祖父はタバコをやめ、穏便な生活になったらしい。
そして、65歳の時、祖父は僕の父と父の兄貴を呼んで深刻な顔でこういった。
「俺も、もうすぐかもしれん。」
どうしてだ、と聞く二人にこう告げたという。
「肛門から血が出た。これは、おそらく大腸癌だ。」
結果は「痔」だった。
その亭主関白な祖父とは正反対の明るくて謙虚でとても優しい僕の祖母の間で僕の父は育った。
祖母から聞いた話だが、祖母が25歳くらいの時に、「会ってみないか」と言われてどこかの駅で会ってみて「なんだ、変な人だな。」と思ったが、そろそろ結婚した方がイイ年齢だし、結婚しとくか、という感じで結婚したらしい。(良かった。そのおかげで今の俺がいる)
祖母の方は、裕福な土地持ちでかなりお金には余裕があった家柄だった。
しかし、兄妹が多いわりには皆身体が弱かったため、他の兄妹と違って丈夫だった祖母は15歳から10年くらいずーっと畑を耕しす係として過ごした。今となってはひでぇ話だ、と祖母はこぼしていた。なので、気づいたら25歳、結婚しなければ、という年齢になってしまったため、結婚したという。
祖母が小学生の頃の戦争の時の話を聞いたが、空に戦闘機が来て「隠れろ!」と言った瞬間に、目の前の柱に機関銃の弾が何発か刺さったことがあるという。(その時わずかでもずれて、祖母にあたっていたら、俺はいなかった。ふぅ、危ない。)
そんな中、小学生の祖母は掃除の時間に、きちんと掃除をしていない同級生を「ほら、ちゃんと掃除せいや!」とはたいていじめていたという(笑)そのくらい、活発だった。
この対局に位置する正反対の二人の間で僕の父と父の兄貴は育っていった。
人生を変えた団地の友達の一言
中学生になると、小学生の時とは違い、「団地」の友達ができた。
その当時、「団地」は「ハイソ」な人たちが住む住宅地だった。(今とは、全くイメージが違う)
団地ができたばかりの頃は、「なんでもそこで完結する、最高の環境」というイメージで売り出し、都会の大企業に勤める一流サラリーマンたちがこぞって団地へ移り住んだ。
つまり、「団地」の子供たちは、比較的裕福な家庭で育っているのだ。
その団地の友達が、僕の父にいろいろと社会の仕組みを教えてくれたという。
「雄二(僕の父の仮の名前)、日本にはな、大学というところがある。高校の次の勉強する場所だ。そして、日本で一番の大学、東京大学というところへ入ると、大企業が雇ってくれる。そうすると、老後まで高い給料がもらえて安泰なんだ。だから雄二、貧乏から抜け出したければ、勉強しろ。勉強して、東京大学へ行くんだ!」
そうか、東京大学か。
中学生くらいになると、「自分の家が貧乏だ」ということに劣等感や、悔しさ、這い上がってやる、という根性が芽生えてきたらしい。貧乏は、悪だ。良いことなんか、ない。そして貧乏から脱出する方法は、ただ一つ、「勉強して、東京大学へ行く」。
親がすでに大学へ行ったことのある家庭なら良い。
勉強の方法が分かっているからだ。
しかし、僕の祖父の最終学歴は小学校卒業(戦争のため)、祖母も中卒だ。
父は、高校へ行かずに就職しようかな、と中学校2年生くらいの時は考えていたらしい。15歳になったら、大工になるか、獣医になるか(猫が好きだったから)と思っていたと。しかし、団地の友達が教えてくれた、「東京大学」。そこへ行けば、貧乏から脱出できる、と分かった後の父は偉かった。勉強する、という選択をしたからだ。
おそらく、ここで大工になる道を選んでいたら、僕もこの世には生まれていないし、今も貧乏だっただろう。
この決断が、人生を変えることになった。
地獄の生活
高校3年生になると、いよいよ大学受験となった。
無名の高校から東大なんていままで、1人も合格したことはない。
やはり、惨敗した。
そもそもの勉強の方法がわからない以前に、周りの友達もほとんど大学受験なんてしない。
みな、就職する友達ばかりだ。孤独の闘いだった。
しかも、自宅は、エアコンなんてない。
猛暑でも4畳半の狭い部屋で、扇風機をつけて勉強するしかなかった。
こんなんでは、熱中症になってしまう。なんどか、意識が飛びそうになることもあった。
2浪して、ダメだった。絶望。
当時は、2浪以上で東大へ行っても、起業は雇ってくれなかった。
将来どうするか。とりあえず、夜間学校へ通った。
夜間学校へ通いながらの仮面浪人。3浪で、千葉大の建築学部へ入った。
再起
現役の奴らと受験の話にはなる。
共通一次試験(今のセンター試験)の結果も聞く。
当然、東大を目指していた父は9割以上取れていたのにもかかわらず、周りは7割くらいだ。
大学の野球部も楽しくなかった。
「畜生・・・なんでこんなやつらと一緒にされないといけないんだ」
大学生活を送りながら、2年生の夏に再受験を決めた。
現役の時や浪人の時とは、違う、余裕があった。
毎日NHKラジヲで、英語のリスニング講座を聞きながら、大学への数学を解く。
そんな日々が夏から続いた。
再受験
受験はどこにするか。
東大へ行って貧乏から脱出する作戦には失敗してしまったが、他にも方法がある。
そうか、医者か歯医者になればいいんだ。
その当時、医者よりも歯科医の方が羽振りが良かった。
千葉大医学部と医科歯科の歯学部は同じくらいの偏差値。(今とは違う。昔はほとんど医学部と歯学部の難しさに差がなかった)
できるなら、1番がイイ。
歯学部で1番は東京医科歯科。
医科歯科にしよう。歯医者の方が羽振りが良いし。
受験当日。
数学がスラスラ解けた。
試験が終わり、解答速報を見る。
「・・・え。全部合ってる。満点だ。」
それでも、1回目の再受験で合格できる確信はなかった。
合格発表当日。
雨だった。
降り注ぐ、雨の中、お茶の水にある医科歯科の合格掲示板へ。
人だかりが凄い。
全然見えない。
「どうせ受かってないだろうな・・・。」と思って、後ろの方で焦る気持ちはない。
隣の人が「良く見えないんですけど、○○番ってありますか?」と聞いてきた。
おそらく、お母さんだ。
「えっと・・・あぁ・・・ない、ですね・・・。」
「そうですか・・・。ありがとうございます。」
とぼとぼと変える、母親。
おっと、それよりも、自分の番号は・・・
あった。
時が止まる。
何度も確認する。
ある。
確かに、ある。
合格したんだ。
受かった!よっしゃぁ!
駅へ戻り、母親へ電話する。
「母ちゃん、受かったよ!医科歯科!受かった!」
「あぁそうかい。あれぇ?まだ受験してたのかい?でも、良かったねぇ。良かった良かった。」
これが、僕が父親から聞いた、父の受験話である。
父の人生の逆転はここから始まった。
最高の大学時代
千葉大の時とは違って、何もかもがきらめいて見えた。
千葉大の建築学部では、浪人生はほとんどいなかったため、おじさん呼ばわりされていたが、医科歯科では違った。
東大卒や、大阪大学卒、名古屋大卒、など他大学を卒業してから歯学部に入学する人もたくさんいた。
そして、医学部と歯学部は一緒に部活をしていた。
父は、大好きだった野球部へ入部。
キャプテンを務めた。
大阪大学と、医科歯科の野球の定期戦の打ち上げで、優勝杯にビールを何十杯も注いで、それを全部飲んで盛り上げた。
優勝杯のビールを全部飲んだのは父が初らしい。トイレに猛ダッシュしてはいたが、気持ちは爽快だった。
教授にも気に入られて、授業中にこの前の試合で打ったホームランについて褒められた。
友達と、北海道へ旅行に行ったり、小笠原諸島へ行ったりして、楽しい大学生活を送った。
父の大学生の頃の話は、何度も聞いているから息子の僕は経験していないのに、だいぶ把握している。
相当楽しかったらしい。
そして、卒業し、僕の母と結婚し、僕が生まれる。
母との出会いについては、後日話そうと思う。
ここからは、僕の物語だ。
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この物語はフィクションです。
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