情報は無限にある
同じものを見ても、見る人が違えば受け取る情報も、その解釈も違う。
例えば、アイドルのコンサートを観た時に、純粋にそのコンサートを楽しんでいる人と、ダンスを指導している人、歌を指導している人では同じコンサートを例え同じ位置から観たとしても、受け取れる情報・解釈が全く異なるものになることは想像しやすいと思う。
要は、生体内での化学物質で情報のやり取りをする、リガンドと受容体のように・・・と言っても難しいと思うが、リガンドと受容体は鍵と鍵穴のような関係で受容体(鍵穴)の形に合うリガンド(鍵)でなければ反応しないのだ。
つまり、実はこの世の中には目に見えない情報が無限に溢れているが、それらをどう受け取って、どう解釈するか、というのは各個人によって異なるということである。
無限にある情報を受け取る、その受容体の方もかなり大切なのだ。
物理法則は実は情報の伝達?
そう考えると、実は例えば物質同士の衝突などもリガンドと受容体の関係と考えることができる。
しかし、この関係は絶対的だ。
こういう力が加われば、このように動く、というような”法則”のもと、「力の情報伝達」が起きる事象、これが物理である。
その情報伝達の”法則”をさらに高次元の情報として解釈していく、というのが物理学だ。
情報の伝達をミクロに分解していくと、全てが情報伝達によって成り立っているという説明がつく。
哲学的な発想か
と、ここまで書いてみて思ったのが、これは実は哲学ではないのか、ということだ。
上記に書いたことは、実際に僕がなんの参考もなくただ今日の朝思いついたことを書いてみただけなのだが、昔の人はこの世の中の現象を説明するときにいろいろな思考を重ねて、四元論やら、なんやら色々論理的な展開で”解釈”していった。
高校生が大学受験の時に学ぶことは、
「哲学の祖はミレトスのタレースであり、彼は万物の根源(アルケー)を水であるとしたと記している[3]。
また、ヘラクレイトスは火を、ピタゴラスは数をアルケーとし、エンペドクレースは土・水・火・空気の四大からなるリゾーマタ、デモクリトスはアトモス(不可分体)が根源であるとした。では、アナクシマンドロスがアルケーとしたのは何か?」
みたいな感じで勉強というものを進めるから、面白くないのであって、実は一人一人の「考えていたこと」や「思っていること」を文章として紐解いていけば面白いのではないかとも思う。
もっとも、それらを記した書物がなければ実現はできないのだが。
哲学ではなく、現実の生活に情報と意識の考えを持ってくる
哲学とか言ってしまうといきなりつまらなくなってしまいそうなので、話を元に戻すこととする。
もっと具体的なことに言い換えてみる。
要研究などで利用するであろう、情報=データと、それらを実際に利用するか、そして、誰がそれをするのか、ということだ。
よく、僕のいる施設では、「研究のためのデータとして使う”かも”しれないから、取っておいて」というようなことが言われるが、そのデータは使われなければ、全く意味のないものになる。意味のないもの、というのは例えデータとしては価値があるかもしれないが、そのデータを利用する側の人間によって全く解釈が異なってしまい、有意義に利用できないもの、ということである。
実際に、この世の中で「実験で証明された」というものの中でも、「その人が条件を揃えて、より完璧に近いデータを綺麗に集めることができた」「その人が実験をまとめたからその結果になった」だけというものはたくさんある。
「その人以外の人がデータを解釈した」場合は、「結果が出なかった」ということも、実はあるのではないかということだ。
例え、完璧なデータが揃っていても、例えそれをうまく解釈できる人が解釈したら結果が出るようなデータであっても、それを解釈する人がポンコツであれば結果が出ない可能性もあるのではないか、ということである。
ポンコツかどうか、は実はかなり高度な問題で、そもそもそのデータを正しく統計学的に処理ができる人は実はかなり稀である。
もちろん、今はexcelや統計のソフトがたくさんありそれらをどう使うかという方法を勉強すればチョチョイのちょいかもしれないがほとんどの人はそれがめんどくさいと思うだろうし、難しすぎて理解不能という人もたくさんいるはずだ。
というのも、僕がポンコツだからだ。
統計とか難しすぎて意味不明。研究とかやりたくない、難しい、いやだ。これがわかって何が楽しいの?状態である。
理由は、興味がないからであろう。既にわかっていることを勉強するのが得意、というのが今までのこの日本における大学受験で勝ち残ってきた人たちの得意分野であって、自分で自ら問題を提起して、それらをどのように整理して、どうすれば結果が出るか、ということを考えるのが得意な人はまた別な能力なのではないか。
もちろん、もし、この統計学の講義があり、テストがあり、これをこうしてこうこうこうこう、という方法を教えてくれるような講座があり、それをしっかり勉強するための「昼間の時間」が確保できるのであれば、大学受験を乗り越えてきた僕たちだって、頑張れるだろう。
しかし、忙しい患者の外来を終えて、疲れた夜遅くから自主的に、そういうことまで勉強しようという気になる人は、本当にごく一部だし、帰ったらYoutubeかNetflixを見て酒飲んでゲームしたい。遊びたい。これは僕だけだろうか?
この繰り返す日々を脱却するためには、何か変えなければならず、このままこの生活を送っていては変わることはできない。
脱却する=FIREという考え方もあるが、僕はそうではなくて、好きなことをして稼いでいくということの方が言葉の通り合っている気がする。
と、ここまで話が脱線してしまったが、これも僕の受容体が、研究のためのデータを受け取る受容体として適合していないからであろう。
こういう、研究のデータを集めたり、調べたりするのが大好きな受容体を持っている人たちがこれをやればいい。僕は向いていない。
世の中でいう、「それ、君に向いているね」とか「向いていない、合っていない」というのは、この無限に漂うリガンドとの相性が自分の受容体にマッチしていないか、もしくは悪影響を及ぼす受容体の形になっているからではないかと思う。
他の人が何にも感じない「言葉」に対して、受け取る解釈が悪い方向へ向いてしまう受容体の人や、繊細な人、というのは、この受容体が多かったり、変異していたりするからなのだ。
逆に言えば、そう考えると、この世の中はどうとでも解釈できることになる。
要は、どう、情報を受け取るか、解釈するか、という自分の受容体を変化させればいいのだ。
物理法則だってそうだ。
どんなに速い鉄球が飛んできても、めちゃくちゃ伸びるゴムみたいな風呂敷で受け止めればダメージはない。
カチカチの氷の板でそれを受け取れば、板は粉々になる。
世の中、こういうふうにできていると考えると、少し生きやすくなるのではないか。