僕の母親は「反ワクチン」だ。
そして、僕の父親は「反DX」だ。
二人とも、とてもスピリチュアルなものを信じる傾向がある。
例えば、毎日感謝していれば良いことが起こる、とか、悪い言葉を言うと自分に返ってくる、とか。
確かに、これらは道徳の面ではとても良い。
しかし、度を超すとどうなるか。
宗教に貢ぎものを捧げれば良いことが起きる、とか、インターネットに繋がるだけで全ての情報が奪われる、だとかそういう「全く根拠もないことを心から信じ込んでしまう」のである。
僕はこの二人のもとで育ったから途中まではとても良い性格に育ったと思う。
しかし、途中で気づく。
「あれ?世の中そんな簡単じゃないぞ。良いことをしてあげた奴から裏切られることもあるし、悪いことをした奴がのうのうと生きていることもある。そうか。これが現実なんだ。」と。
そこから、僕は自分自身の目で確かめたり、理論的に物事を考える癖がつくようになった。
「どうして感謝をすると良いことが起きるのか?それは、感謝をすること自体に意味があるのではなく、感謝をする、と心持ちでいることで、今目の前で起きていることを肯定的に捉えることができる様になる。そうすると、良いことが起きている”ように錯覚しているだけ”なのではないか?」とか、
「運の良い、悪い、は本当に偶然起きるもので自分の行いによって変わるのではなく、何に注目しているかでチャンスが見えるかどうか、だ。自分が運が良い、と思っている人は、運が良いと思っているからとても困難な状況になっても解決策が見えてくると信じ込み、実際にそのチャンスが目の前に来た時に気づくことができる。しかし、運が悪いと思っていれば、解決策なんか運の悪い自分には見つかるはずがないと思い込むことで目の前にあるものを全て無視してしまうから結果、運が悪くなるのだ」とか。
おそらく、僕の両親二人とも「目の前で起きている事象が細かく理解できていないからそういうスピリチュアルなものを信じているのではないか」と考える様になった。
そして、最近TikTokのお坊さんのチャンネルで同じ様なことを言っている人がいた。
@mindfuldesuコトヨロ🥳♬ 僕のこと(チキンCover) - チキンくん
「祈り」とは、「自分の力ではどうしようもできない困難に出会った人がするものである」というものだ。
「そうか。」と腑に落ちた。
自分は「祈るほどの困難にまだ出会っていない」「自分の力でなんとか乗り越えられるほどの壁しか乗り越えていない」ということなのだ。
両親はもちろん自分よりも長く生きている。
長く生きれば、生きるほど、自分の力ではどうしようもない困難に出会うことも多くなるだろう。
そうして祈る様になってから、祈り=スピリチュアルなものを信じる、という様になったのか。
祈るのは簡単である。
自分の力ではどうしようもできない、と諦めて、あとはただ祈るだけだからだ。
要は「自分の頭で考えることを放棄している状態」である。
もしくは、「わからないことを調べて理解する」という「努力を放棄している」。
これらの作業、特に頭を使う作業というのはとても疲れる。疲労が溜まる。
だから、歳をとるにつれて、自分の頭で考えて理解したり、新しいことに挑戦したり、調べたりすることなく、特に「不安のある様な出来事」が出てきた場合、人はそれらを理解することを諦め、避け続けるか、拒絶するのである。
だからこそ、「頭の悪い人たち」が「ワクチンは毒だ」と反ワクチンになるのだ。
ワクチンの機序が理解できない、コロナが怖くてたまらない、そしてその時点で「考えること、調べることを放棄する」のである。
そっちの方が、「楽だから」だ。
そして、理解できない、怖い、から拒絶する。
拒絶した結果、自分がワクチンを打たないこと=ワクチンは悪いもの、という理解にならないと「認知的不協和」が生じるから、「ワクチンは毒だ」という結論になる。
もし、自分がワクチンを打っていない、のに、ワクチンでコロナの重症化が防げる、という理解になると矛盾してしまうから、そういう理解になる。
そうやって、自分で自分を洗脳するのである。
ワクチンが理解できない=自分力ではどうしようもできないほどの困難、であるから、ワクチンの機序すら理解できない人、ということになる。
要は、「バカ」なのだ。
やっと理解できた。
スピリチュアルなものにハマる理由は「そうしなければいられないほどの困難に出会ったから」なのだ。